「AI×心理学」テック企業が経営の根幹に
心理学・行動経済学の意思決定を組み込む理由とは？

AIが浸透し、DX時代が到来する中で、最新のデジタル技術の導入はもちろんですが、より人間の行動に寄り添ったビジネスドメインの開発も必要となってきます。こうした専門知識のビジネス導入は既に海外企業では実践されており、近年では「行動経済学」や「心理学」のビジネス導入に目を向ける経営者が増えている印象です。

そんな中、行動科学を経営の根幹に組み込むCBO（Chief Behavior Officer）を採用する企業も増えています。そこで今回は、海外のテック企業を中心にCBOなどの心理学・行動経済学のバックボーンを持った人材を求めているという背景と、実際に配置した最新の企業事例をご紹介します。ぜひ参考にしてみてください。

■なぜ、ビジネス現場で行動経済学・心理学が求められる？

行動経済学とは、心理学に基づく理論を応用し経済行動を分析するための学問です。例えば「人間がどのような心理状態にある時、どのように行動するのか」を研究しています。行動経済学自体はアメリカを中心に1990年代から発展した分野になりますが、注目され始めたのは2002年・2013年・2017年に行動経済学者がノーベル経済学賞を受賞したことがきっかけであるため、まだ比較的歴史の浅い学問と言えます。

従来の経済学では、「人間は合理的な生き物で、自分の利益が最大化するように行動する」ことを前提としていました。しかし、行動経済学はその逆で、「人間は非合理な意思決定をするもの」という前提で分析されています。

例えば、いつまで経っても成功していないのにある程度の投資したが故に引っ込みがつかなくなり継続しているプロジェクトなどは、まさに非合理な意思決定をしている一例です。こうした非合理性は企業にとって利益につながらないものに対して、行動経済学をもとにしたメソッドを取り入れることで、企業内の非合理的な意思決定を未然に防ぐことが可能です。

さらには、消費者やユーザー、従業員が何を選ぶのか、どう行動するかがある程度予測できるため、目標とする行動へと誘導したい場合にも役立ちます。こうした背景から、アメリカのビジネス現場では行動経済学や心理学のバックボーンを持った人間を求めているのです。

■テック企業を中心にCBOを配置する企業が増えている

行動経済学をビジネスに取り入れる動きが強まっている中、アメリカではテック企業を中心に「CBO」を配置する企業が増えてきました。これまでCBOというと、Chief Branding Officer（最高ブランディング責任者）やChief Business Officer（最高営業責任者）などが一般的でしたが、ここでのCBOはChief Behavioral Officer（最高行動責任者）のことを指します。

CBOは、行動経済学や心理学に基づく知見を活用し、消費者・顧客・従業員の行動変化に取り組みます。大きな役割としては、行動科学・心理学の知見を活かしながら企業のマーケティング戦略を考えることです。戦略の中で生まれた仮説をデータやAI技術を駆使し、検証していきます。アメリカでは元々行動科学について研究してきた専門家に依頼し、社内に置くことが一般化してきました。例えばGAFAを含む以下の企業は、行動経済学に関連するポジションを用意し、採用しています。

• Bank of America……行動金融アナリスト
• Meta（Facebook）……オーディエンスインサイトアナリスト
• Google（Alphabet）……シニア行動インサイトマネージャー
• AMP……行動経済学インサイトマネージャー
• HSBC……行動経済学シニアマネージャー
• Capita……行動経済学と情報のシニアマネージャー
• Allianz……シニア行動金融スペシャリスト

では、実際にCBOを配置した海外企業の事例をご紹介していきましょう。

• BetterUp
  BetterUpは企業内教育やコーチング、HRテックを中心にキャリア支援・研修プラットフォームの構築を手掛ける会社です。2013年に設立し、最新のAIテクノロジーを駆使したサービスを提供しています。
  2022年10月4日に著名な組織心理学者でありベストセラー作家でもあるアダム・グラント氏がBetterUp Labsの会長に就任したことが発表されました。BetterUp Labsは2,000万ドルを投資して設立された行動研究ラボで、40人以上の博士号を持つチームが組織心理学・行動神経学・社会心理学における研究とビジネスへの展開を手掛ける組織です。既にBetterUp Labsは実績を挙げており、例えば健康とメンタルフィットネスを構築する際に介入としてのコーチングの有効性が示された研究内容が、国際的な医学ジャーナル「JMIR（Journal of Medical Internet Research）」にも掲載されています。アダム・グラント氏は元々BetterUp Science BoardのメンバーでありながらWhole Person Model のアドバイザーとしても活躍しており、パフォーマンスの向上や燃え尽き症候群の軽減、新たなアイデアと組織変化の擁護に関する研究も開拓してきました。今回の就任により、業界内でも革新的な行動科学・AIテクノロジーによる相互作用を生み出し、人々や組織への繁栄につなげていくとしています。

• Lemonade
  Lemonadeは、ニューヨークを拠点に活動する損害保険会社で、2015年に創業したばかりの企業です。そんなLemonadeに対し、シリコンバレーではトップクラスのベンチャーキャピタルとして知られるセコイヤキャピタルやThriveキャピタル、日本からはソフトバンクなどが投資していたことが分かり、話題を集めていました。保険会社の商品ラインナップというのは誰にでも対応できるよう幅広く用意されていることが多いですが、Lemonadeの場合はかなりシンプルなラインナップになっているのが特徴的です。さらに、わずか数秒で審査を実施するボットシステムの開発やクレーム処理をAIにすべて対応させており、これまでの保険会社にはなかったAI技術による仕組みづくりが行われています。AI技術を保険ビジネスに大きく関与させたことで人的コストを大幅に削減でき、その代わりに行動経済学がベースとなる研究と、その研究を活かしモチベーション構築の仕組みづくりに投資しています。
  
  2017年にはデューク大学で心理学を研究するダン・アリエリー教授がCBOを務めたことでも話題となりました（2020年末に退任）。ダン教授は人間のモチベーションを高め、生産性を上げるには「意味付け」が必要であることを研究によって導き出した人物としても有名です。ダン教授がCBOに務めてからは、保険会社と顧客側の利害対立をなくすためのビジネスモデルを提唱し、「ソーシャルインシュランス」という新たなコンセプトを打ち出しました。ソーシャルインシュランスとは個人間の信頼関係を元に構築された保険で、加入者同士がグループを作り、支払った保険料をプールしておくことが可能です。グループメンバーから保険請求が行われた場合、そのグループ内で保険料の支払いが行われます。請求額がプールしていた金額以上になった場合、外部の保険会社から保険金が支払われる仕組みです。これにより、保険会社と顧客側で利益相反を防ぐことに成功したのです。

■日本のビジネスに「行動経済学」は浸透するか

世界的な大企業をはじめ、今後行動経済学の需要はかなり高まるものと考えられます。しかし、その一方で世界ではCBOの配置など、行動経済学にスポットを当てている企業が多くみられますが、日本企業ではまだそこまで適用されていない状態です。なぜ日本では未だに行動経済学がビジネスに浸透していないのでしょうか？その理由に以下のようなものが考えられます。

• 研究知見をビジネスに応用する文化がない
  まず、日本は海外と比較して研究知見をビジネスに応用する文化がそれほど醸成されていない点が挙げられます。行動経済学は新しい学問分野ではあるものの、これまでに多くの研究知見が積み上げられてきました。この研究知見をすべて理解するためには高度な専門性が必要となります。また、最新の情報は英語で発表されることも多く、読解の難しさもあります。
  アメリカの場合、CBOのように元々行動経済学を研究してきた人物にポジションを与えていますが、日本企業ではこうした学術論文や先行研究を理解できる人材は学者として務めるか、企業に属するにしても相応のポジションが用意されていないことがほとんどです。そもそも、日本企業が経営の根幹に学問の研究知見を応用する文化が根付いていないことがも原因だと考えられます。

• 専門的スキルを持った人材が不足している
  行動経済学についてのバックボーンがあっても、その専門性の高い知識をビジネスに活かせなければ意味がありません。学者が「企業の商品・サービスにどう行動経済学を取り入れれば良いのか」を考えるためには、専門性に加えて高い柔軟性も求められます。CBOというのは、いわば研究分野とビジネスとの橋渡しをする存在です。行動経済学の専門的知識を有しながら、ビジネスの分野での知識も兼ね備えている人材は不足している状況となっています。

■おわりに

今回は、海外のテック企業がCBOを求めている背景と実際に配置した企業事例などをご紹介してきました。海外では行動経済学を既に自社商品・サービスに落とし込んでいる企業も見られます。研究知見とビジネスを橋渡しする役割を担うCBOという役職を配置することで、専門知識をビジネスへと応用しています。

行動経済学や心理学は人間の感性を理解するために重要な研究分野と言えます。特に商品・サービスへのAI活用が広まっていく中で、人間の感性により近づけるためには行動経済学・心理学は必要不可欠です。将来的に日本企業でもCBOのようなポジションが浸透し、行動経済学・心理学とAI技術がうまく融合させていくことが重要となるでしょう。